スマホ説教 スマホで福音

日本キリスト教団王子北教会 http://romantischeironie.wix.com/godisnowhere から福音を発信します。スマートフォンなどの画面でも読めるような、なるべく短い、キリスト教のメッセージを語れたらいいなと思います。

涙を流していい場所、涙をぬぐってもらえる場所

聖書 ヨハネの黙示録21章3-4節(新共同訳)

21:3 そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、4 彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」

教会の葬儀において納骨したり、逝去者の記念日に礼拝したりするときに、この聖書箇所はよく用いられます。

教会は共同体です。ですが学校や病院のような共同体と違って、生きている人だけの共同体ではありません。天へと召された、数え切れない先駆者たちと共に私たちは祈り、賛美しています。信仰が道徳や倫理と違うのは、そこです。

死は終わりではありません。神があなたの涙を直接ぬぐって下さる場所で、あなたは懐かしい顔を見るでしょう。

とうぜん、あなたのことも

聖書 ヨハネによる福音書17章20節(新共同訳)

また、彼らのためだけでなく、彼らの言葉によってわたしを信じる人々のためにも、お願いします。

これはイエスの祈りです。「彼ら」とは生前のイエスに従った弟子たちのことです。そしてイエスが十字架で死に、復活し、昇天した後、彼らは喜びにあふれて伝道しました。その伝道の言葉によってイエスと出会い、信じた人々のことをも、ここですでにイエスは祈っているのです。

そう、わたしのことも、あなたのことも、イエスは織り込み済みです。ずっとずっと昔から、イエスはあなたと出会うことを、そう、あなたの顔を覚えていたんです、どんなときでも。

弔いさえできない

聖書 士師記11章30-31、34節(新共同訳)

11:30 エフタは主に誓いを立てて言った。「もしあなたがアンモン人をわたしの手に渡してくださるなら、31 わたしがアンモンとの戦いから無事に帰るとき、わたしの家の戸口からわたしを迎えに出て来る者を主のものといたします。わたしはその者を、焼き尽くす献げ物といたします。」

34 エフタがミツパにある自分の家に帰ったとき、自分の娘が鼓を打ち鳴らし、踊りながら迎えに出て来た。彼女は一人娘で、彼にはほかに息子も娘もいなかった。

 

 

「焼き尽くす献げ物」。ホロカウトーマ。ホロコースト

誰かのために誰かが犠牲になること。そこから美談を紡ぎ出すなど、できはしない。焼き尽くされたひとり娘。その遺灰の前で、エフタは何を「悔い改め」たのか。

イエス・キリストが十字架で、こんなわたしの犠牲になってしまった。十字架の前で、わたしは何を言えるのか。わたしはこれ以上どんな犠牲を、さらなる誰かに求め、貪ろうというのか。

錨はおろされた

聖書 フィリピの信徒への手紙1章15~18節(新共同訳)

1:15 キリストを宣べ伝えるのに、ねたみと争いの念にかられてする者もいれば、善意でする者もいます。16 一方は、わたしが福音を弁明するために捕らわれているのを知って、愛の動機からそうするのですが、17 他方は、自分の利益を求めて、獄中のわたしをいっそう苦しめようという不純な動機からキリストを告げ知らせているのです。18 だが、それがなんであろう。口実であれ、真実であれ、とにかく、キリストが告げ知らされているのですから、わたしはそれを喜んでいます。これからも喜びます。

もう何も言えません。

他人を羨み、妬むことに苦しんできたわたしにとって、これほどの希望はない。そうだ、生き辛いわたしでも、こんなに喜べるんだ。

他人がわたしをどう評価するかに揺り動かされても、転覆はさせられない。イエス・キリストへ、しっかりと錨がおろされているから。

いいや、死んでは終わらん

聖書 ヨハネによる福音書11章3~5節(新共同訳)

11:3 姉妹たちはイエスのもとに人をやって、「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と言わせた。4 イエスは、それを聞いて言われた。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」5 イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。

このあと、イエスは愛するラザロの死を前にして、涙を流したり憤ったりしながら、

「ラザロ、出てきなさい」

と、大声で墓から呼び戻します(43節)。

あなたの身に起こる不条理に涙を流し、憤り、大声であなたの名を叫ぶイエス。彼はクールな救い主ではありません。あなたに惚れこんでいるイエス・キリストは、あなたの苦難を前にして平静を装ってなどいられないのです。

それが「キリストはあなたと共におられる」ということです。

剥き出しにされるものは

聖書 ヨハネによる福音書10章32-33節(新共同訳)

10:32 すると、イエスは言われた。「わたしは、父が与えてくださった多くの善い業をあなたたちに示した。その中のどの業のために、石で打ち殺そうとするのか。」33 ユダヤ人たちは答えた。「善い業のことで、石で打ち殺すのではない。神を冒涜したからだ。あなたは、人間なのに、自分を神としているからだ。」

自分がいちばん大切にしているものに、土足で踏み込まれた。そう感じたとき、私の怒りは沸騰します。相手への殺意さえ芽生える。ユダヤ人にとって、イエスが神の子と自称することは耐えがたい屈辱でした。そのことを覚えておかないと、イエスは正しかったがユダヤ人たちは愚かだったという、単純な二分法に陥ります。

ユダヤ人たちは、殺意を抱いてしまうほど深いところで、イエスと出会ってしまったのかもしれない。同じ深い出会いから、イエスに救われる者もいるのに・・・そう思うと、複雑な思いを禁じ得ないのです。

もこもこ、もこもこと、身よせあい

聖書 ヨハネによる福音書10章24~26節(新共同訳)

10:24 すると、ユダヤ人たちがイエスを取り囲んで言った。「いつまで、わたしたちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい。」25 イエスは答えられた。「わたしは言ったが、あなたたちは信じない。わたしが父の名によって行う業が、わたしについて証しをしている。26 しかし、あなたたちは信じない。わたしの羊ではないからである。」

防犯カメラでイエスの復活を撮影できたとしても、わたしはそれを特撮だと思う。どんな証拠を積み重ねても同じこと。

信じるっていうのは、証拠集めとは違う。信じる───それは、イエスと出会ってしまうこと。

イエスと出会うってことは、イエスを疑い、躓きながらも、イエスの羊になってしまうこと。なんだかんだでけっきょくイエスに守ってもらう羊どうし、安心を分かちあえること。

分かちあえば、たった一人で背負っていたものは、少しだけ軽くなる。