「あなたと飲み食いしたい人がいる」と、悪霊憑きは言う
聖書 マタイによる福音書11章18-19節(新共同訳)
11:18 ヨハネが来て、食べも飲みもしないでいると、『あれは悪霊に取りつかれている』と言い、19 人の子が来て、飲み食いすると、『見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ』と言う。しかし、知恵の正しさは、その働きによって証明される。
当時の人々は、「人の子」という言葉に天的な存在者、神と特別な関係にある何者かを期待しました。
しかし悪霊憑きだと陰口されるヨハネが、イエスの到来を預言しました。そしてイエスは神聖な姿ではなく、罪人の仲間として自分をさらしました。
あなたの神は、あなたから遠い神ではありません。イエスはあなたと一緒に飲み食いしたがっている。あなたと同じ孤独を、人の子も生きているから。
「間違えよう」と決意する人はいない。
聖書 イザヤ書59章12節(新共同訳)
59:12 御前に、わたしたちの背きの罪は重く/わたしたち自身の罪が不利な証言をする。背きの罪はわたしたちと共にあり/わたしたちは自分の咎を知っている。
それが間違いであることを知っている。それが悪いことだと分かっている。でも、げんにそれをしてしまう。なぜなのか。どこで間違えたのか。
「よし、間違えよう」。そんな言葉はありません。いつの間にか道を誤る。なぜか軌道修正できない。ますます負の連鎖に落ち込む。この苦しい現実を、聖書では罪と呼びます。
イエス・キリストは、わたしやあなたが間違い、迷ったら、一緒に道を探してくれる。自力ではどうにもならない迷いから、自由へと解放してくれるのです。
わたしの生きる根っこだから
聖書 コリントの信徒への手紙 一 15章14節,19節(新共同訳)
そして、キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。
この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です。
生き抜いたあの人と、もういちど会える。それは死から起き上がったキリスト自身が、わたしたちに身をもって約束してくれたこと。
愛する人を喪い、声をあげるだけあげて、涙を流すだけ流しきる。何年かかってもいい。
おぼろげに見えてくるでしょう。愛するあの人と、もういちど会える。キリストのもとで、いつの日か。
わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。(同13章12節a)
祈りの安心
聖書 詩編51篇6節、9節(新共同訳)
あなたに、あなたのみにわたしは罪を犯し/御目に悪事と見られることをしました。あなたの言われることは正しく/あなたの裁きに誤りはありません。
ヒソプの枝でわたしの罪を払ってください/わたしが清くなるように。わたしを洗ってください/雪よりも白くなるように。
「あなたに、あなたのみに」わたしは罪を犯した。
「あなたに、あなたのみに」の正反対は「わたしが、わたしだけが」。肥大化する自我を抱え込み、それをだれかに譲ることもできず。
息も詰まりそうな日々を生きる、わたし。
でも、祈るときは。わたしのぜんぶ、ただあなたに、あなたのみに明け渡して。わたしの自信/自身、真っ白になってもいい。意地の張りあい、将来への不安。なにもかもから自由になれる。
祈り終われば。にぎりしめたこぶし、すこしゆるめられる。にぎりしめたもの、すこしてばなせる。