スマホ説教 スマホで福音

日本キリスト教団王子北教会 http://romantischeironie.wix.com/godisnowhere から福音を発信します。スマートフォンなどの画面でも読めるような、なるべく短い、キリスト教のメッセージを語れたらいいなと思います。

だからはいつくばってもいい

聖書 マタイによる福音書20章27-28節(新共同訳)

いちばん上になりたい者は、皆の僕(しもべ)になりなさい。

人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。

こんな私なんて価値がないと思っても。イエスは私に仕えることを、やめはしない。イエスは私を諦めない。

私なんてくずだと思っても。イエスは私を下から支え、私にすべてを献げ続ける。私の身代金は、それほどに値が張る。

人混みのなかで軽い、かるい私は、しかしイエスの目には、重く貴い。

わたしをやわらかにする

聖書 ペトロの手紙 二 1章19節(新共同訳)

こうして、わたしたちには、預言の言葉はいっそう確かなものとなっています。夜が明け、明けの明星があなたがたの心の中に昇るときまで、暗い所に輝くともし火として、どうかこの預言の言葉に留意していてください。

真っ暗闇のなかを歩いたことがありますか。

穴なんてないと分かっていても、落ちてしまいそう。こわばり小股で歩く。

 

忘れられた月の満ち欠け。けれど漆黒の道、満月の夜はなんて明るい。

銀にまぶしい道、浮き彫りになる自分の足。

 

その光ひとつで、わたしの足はやわらかに。

その言葉一つで、わたしはやわらかに。

あなたの受苦が記される

ヨブ記1章9~11節(新共同訳)

サタンは答えた。「ヨブが、利益もないのに神を敬うでしょうか。 あなたは彼とその一族、全財産を守っておられるではありませんか。彼の手の業をすべて祝福なさいます。お陰で、彼の家畜はその地に溢れるほどです。 ひとつこの辺で、御手を伸ばして彼の財産に触れてごらんなさい。面と向かってあなたを呪うにちがいありません。」

理由なく酷い目に遭う人がいる。かける言葉もない。

理由なく酷い目に遭う自分がいる。言葉も出ない。

それでも感謝できるか?残酷な問い。

神はこの残酷を抱きとめる。問うあなたを突き刺す痛みを、ともに痛みながら。

あなたは居る

イザヤ書35章5-6節(新共同訳)

そのとき、見えない人の目が開き/聞こえない人の耳が開く。そのとき/歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う。荒れ野に水が湧きいで/荒れ地に川が流れる。

そこにたしかに生きており、息をしており、意志を発している

だが、居ないことになっている 居なかったことにされている

透明化されている 色もかたちも、熱さもあるのに

あなたは居る 

あなたが躍り上がり、喜び歌う

そのみずみずしさの恢復

そのために、キリストはここに。

聖書 マタイによる福音書4章1-2節(新共同訳)

さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。 そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。

“導かれて”、といえば聞こえがいい。だが“ひきずりだされて”、ではなかったと誰が言える。血肉のうるおいを残忍に吸い取る、荒れ野の力。

ここに人の関係はない。誰からも頼りにされない。なにもすることがない。ここにあるのは、渇きと飢えの、おのが身体のみ。

肩書無しの、肩書以前の、あなたの孤独。忙しさと忙しさのあいだの、エアポケットの不安と恐怖。イエスはすべて知っている。イエスはその骨で味わいぬいたから。

聖なる滑稽

聖書 使徒言行録12章12-14節(新共同訳)

こう分かるとペトロは、マルコと呼ばれていたヨハネの母マリアの家に行った。そこには、大勢の人が集まって祈っていた。門の戸をたたくと、ロデという女中が取り次ぎに出て来た。ペトロの声だと分かると、喜びのあまり門を開けもしないで家に駆け込み、ペトロが門の前に立っていると告げた。 

声だけで驚き、声だけで喜び、声の主を置き去りにする滑稽。喜びあふれる人は、自分が滑稽だとは気づかない。滑稽を気にしない。

腹のそこから喜んで、滑稽になれますように。その滑稽さで誰かを笑わせ、喜びへと誘うことができますように。

ただただもったいなくいただく

聖書 マタイによる福音書15章26ー27節(新共同訳)

イエスが、「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」とお答えになると、女は言った。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」

今日のメニューを期待すらせず、こぼれくるものをただ待ちうける。

おなかをすかせたちいさな犬が、食べこぼしを無心に舐め取る。

言葉もつ人が、言葉もたぬ犬のよろこびに、神の恵みを舐め取るいのり。

アーメン、アーメン、今日もありがとうございます。