スマホ説教 スマホで福音

日本キリスト教団王子北教会 http://romantischeironie.wix.com/godisnowhere から福音を発信します。スマートフォンなどの画面でも読めるような、なるべく短い、キリスト教のメッセージを語れたらいいなと思います。

神との遭遇

聖書 使徒言行録17章32~34節(新共同訳)

死者の復活ということを聞くと、ある者はあざ笑い、ある者は、「それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう」と言った。それで、パウロはその場を立ち去った。しかし、彼について行って信仰に入った者も、何人かいた。

むしろパウロについて行った人が現れたことのほうが不思議。そして信仰とは、つまりそういう「理由なき出会い」とでも言いうるものだ。

出会わなければ復活など荒唐無稽。しかし出会ってしまった人にとって、それは生きた光そのものとなる。

神に駄々をこねる

聖書 マタイによる福音書11章25-26章(新共同訳)

そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。」

神の真理を知るために、知恵を棄て幼子になろうとする。その決意がすでに賢い。どうすれば幼子そのものに?

神に話しかけること。神に願い、神に怒り、神に泣き、神に喜ぶこと・・・・神と話をすること。そのときあなたはいつも幼子。何歳になっても神にだけは駄々をこねる。

あなたの息を覚えている

聖書 ヨエル書2章22-23節(新共同訳)

野の獣よ、恐れるな。荒れ野の草地は緑となり/木は実を結び/いちじくとぶどうは豊かな実りをもたらす。シオンの子らよ。あなたたちの神なる主によって喜び躍れ。主はあなたたちを救うために/秋の雨を与えて豊かに降らせてくださる。元のように、秋の雨と春の雨をお与えになる。

命は日々糧を求めて、懸命に生きている。それを「努力している」と呼ぼうが「努力が足らない」と呼ぼうが、そんな呼び名とは無関係に生きている。

神は懸命に生きている命を、決して忘れない。消えまい、消されまいと生きる命。その炎が強かろうと、風前の灯であろうと、決して忘れない。

神はあなたの一つひとつの息を、決して忘れない。

まだ終わってはいない

聖書 ルカによる福音書24章50~53節(新共同訳)

エスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。

エスは彼らを祝福し「ながら」天に上げられた。祝福し「終えて」ではなく。

彼らが大喜びのときも、失望に打ちのめされたときも。彼らの命が尽きたときも、その後も───イエスの祝福は、ずっと。

その祝福は今も、あなたへ。あなたが大喜びのときも、失望のどん底にあるときも。あなたが息を引き取るときも、その後も。

手が見える

聖書 マタイによる福音書6章3-4節(新共同訳)

施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。あなたの施しを人目につかせないためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。

あなたは気がつかなくても、あなたの手が神さまと手をつないでいる。あなたの手がいつの間にか、あなたの知らぬまに神さまと手をつないでいる。これこそ最高の報い。

神さまはあなたが闇へと倒れ込まないように、しっかりあなたと手をつなぎ、離さない。

またやらかしたけどな、それでもな

聖書 ヨハネの手紙 一 2章1節(新共同訳)

わたしの子たちよ、これらのことを書くのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。たとえ罪を犯しても、御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます。

失敗したら、再挑戦は怖い。

今日もやらかしたんですよ、最悪の失態を。正直、明日からどうしようか。もうやめようかな。

でもまあとりあえず、あと一回はやってみよう。弁護してくれる人もいることだし。あと一回はやってみよう。その人が尻ぬぐいしてくれることに賭けて。

 

導かれるものへ導く

聖書 コリントの信徒への手紙 一 12章3節(新共同訳)

12:3 ここであなたがたに言っておきたい。神の霊によって語る人は、だれも「イエスは神から見捨てられよ」とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです。

みずからの意志で神を信じる。神の霊に導かれ信じるようになる。

この命は自分で作り出していない。だが自分の命を今、自分で生きている。

私自身に源泉を持ちながら、その源泉は私を超えている。それを不思議だと驚くことが、信じることのはじまり。