スマホ説教 スマホで福音

日本キリスト教団王子北教会 http://romantischeironie.wix.com/godisnowhere から福音を発信します。スマートフォンなどの画面でも読めるような、なるべく短い、キリスト教のメッセージを語れたらいいなと思います。

ブロックできないとき、どうするか

マタイによる福音書12章49-50節(新共同訳)

そして、弟子たちの方を指して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である。」

「あなたもわたしも神の家族」と想いつづけることは、むずかしい。

でも天の父の御心は、わかるようでわからないものだ。だから今わたしの嫌いな人がしている、わたしの嫌いなことが、もしかしたら天の父の御心かもしれない。

相手を嫌いなままでいい。わたしは神じゃないから、にんげん全員は愛せない。わたしも相手も天の父の御心につながっている、そのことだけ知ればいい。

今すぐでなくていい

聖書 テモテへの手紙 二 4章6節以下(新共同訳)

わたし自身は、既にいけにえとして献げられています。世を去る時が近づきました。わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。今や、義の栄冠を受けるばかりです。

神が決めた道は、まるで一歩も前に進んでいないような、むしろ退行さえしているような、中断や挫折の道。

「この道を走る意味は?」

意味は道そのもの。どこかだけを切り取ってみても分からない。道全体を見渡せるのは神のみ。

ただ死へと疾走しているのではない。限りある命を走る、あなたは神の目に貴くうつくしい。

あなたが信じたとおりのこと

聖書 マタイによる福音書8章13節(新共同訳)

そして、(イエスは)百人隊長に言われた。「帰りなさい。あなたが信じたとおりになるように。」ちょうどそのとき、(百人隊長の)僕の病気はいやされた。

エスは「病よ去れ」とも「悪魔よ退け」とも言わない。イエスにとってもっともたいせつなこと、それはあなたが信じたとおりのこと。

エスに語りかけられて、あなたは何を信じるのかを知る。

───イエスの言葉に耳傾けて、わたしは祈る安心を得た。

言葉の近さ

聖書 エレミヤ書7章3~6節(新共同訳)

イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。お前たちの道と行いを正せ。そうすれば、わたしはお前たちをこの所に住まわせる。主の神殿、主の神殿、主の神殿という、むなしい言葉に依り頼んではならない。この所で、お前たちの道と行いを正し、お互いの間に正義を行い、寄留の外国人、孤児、寡婦を虐げず、無実の人の血を流さず、異教の神々に従うことなく、自ら災いを招いてはならない。

人の血なんて流すはずない。虐待なんてどこかのバカがすること。

外国人や孤児や寡婦は、わたしにとってだれか。あの人はほんとうに、わたしが思っている程度の人か。そう思うわたしは何者か。

神々とはなにか。わたしは、なにに従って行動しているのか。

きらうわたしを、神にみてもらう

聖書 テモテへの手紙 一 2章1-2節(新共同訳)

そこで、まず第一に勧めます。願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のためにささげなさい。王たちやすべての高官のためにもささげなさい。わたしたちが常に信心と品位を保ち、平穏で落ち着いた生活を送るためです。

いのる。神とじぶんとの関係をいのる。神とあのひととの関係をいのる。

わたしのきらいな、あのひとのことも神に。すると「きらい」ってなに?

神を前に、わたしの「きらい」をみる。じっくり、みる。

わたしの「きらい」は、神を前にちいさい。

息を貸し、引き取る

聖書 使徒言行録4章32-33節(新共同訳)

信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた。使徒たちは、大いなる力をもって主イエスの復活を証しし、皆、人々から非常に好意を持たれていた。

エスは無惨に殺されたが、復活した。だから我々も死に倒れてなお、神に起こされる───現代よりはるかに死が身近な時代、それは鮮やかな希望だった。

だが忘れてはいけない。現代を生きるこのわたしもまた、死すべき存在であることを。神が息を与えてくださり、神が息を引き取ってくださり、その続きがあることを。

これについては古代であれ現代であれ、その心も思いも一つ。

他人ごととは思えぬ

聖書 申命記26章11節(新共同訳)

あなたの神、主があなたとあなたの家族に与えられたすべての賜物を、レビ人およびあなたの中に住んでいる寄留者と共に喜び祝いなさい。

他人であって、他人でない人がいる。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい*1かつて寄留者であった自分を、いま寄留者である他人に見る。もうひとりの自分自身と、いっしょに喜び祝う。

自分がなにものだったのかを思い起こすこと。それは他人のなかにある、わが苦しみを想うこと。想いは不完全。できることはちいさい。でも、そこからがはじまりだ。

*1:レビ記18:18