あなたに、こだわっている
聖書 マタイによる福音書18章14節(新共同訳)
これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。
あなたはどう思う?
超巨大な天の父が、ゼロに近いあなたにこだわる。おかしくない?
それはなんの戯画なのか。こだわりぬいたすえに、無限なる者が十字架で殺されるとは。はだかで死にさらされる小さな者が、墓から起こされるとは。
あなたは誰とくらべて大きい?誰とくらべて小さい?
大きい小さいを、誰が決める。
無限に大きなあなたも神には小さな点。だが、これほどに小さなあなたも神には無限大。
わけられるのは神だけ
聖書 マタイによる福音書13章47-48節(新共同訳)
また、天の国は次のようにたとえられる。網が湖に投げ降ろされ、いろいろな魚を集める。網がいっぱいになると、人々は岸に引き上げ、座って、良いものは器に入れ、悪いものは投げ捨てる。
おたがいだれが大物で、だれが雑魚かなんてわかりやしない。いつかここではない場所へ───そう予感しながら、今をせいいっぱい泳ぐだけ。
魚には魚のいいぶんもあろう。だが魚には漁師の目利きなんてわかりやしない。わからないことはわからなくていい。いつわりの答えに喰いつくつもりはない。
「わからない」ことをわかっていることが、網のなかを楽しくするのだ。
ブロックできないとき、どうするか
マタイによる福音書12章49-50節(新共同訳)
そして、弟子たちの方を指して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である。」
「あなたもわたしも神の家族」と想いつづけることは、むずかしい。
でも天の父の御心は、わかるようでわからないものだ。だから今わたしの嫌いな人がしている、わたしの嫌いなことが、もしかしたら天の父の御心かもしれない。
相手を嫌いなままでいい。わたしは神じゃないから、にんげん全員は愛せない。わたしも相手も天の父の御心につながっている、そのことだけ知ればいい。
今すぐでなくていい
聖書 テモテへの手紙 二 4章6節以下(新共同訳)
わたし自身は、既にいけにえとして献げられています。世を去る時が近づきました。わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。今や、義の栄冠を受けるばかりです。
神が決めた道は、まるで一歩も前に進んでいないような、むしろ退行さえしているような、中断や挫折の道。
「この道を走る意味は?」
意味は道そのもの。どこかだけを切り取ってみても分からない。道全体を見渡せるのは神のみ。
ただ死へと疾走しているのではない。限りある命を走る、あなたは神の目に貴くうつくしい。
言葉の近さ
聖書 エレミヤ書7章3~6節(新共同訳)
イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。お前たちの道と行いを正せ。そうすれば、わたしはお前たちをこの所に住まわせる。主の神殿、主の神殿、主の神殿という、むなしい言葉に依り頼んではならない。この所で、お前たちの道と行いを正し、お互いの間に正義を行い、寄留の外国人、孤児、寡婦を虐げず、無実の人の血を流さず、異教の神々に従うことなく、自ら災いを招いてはならない。
人の血なんて流すはずない。虐待なんてどこかのバカがすること。
外国人や孤児や寡婦は、わたしにとってだれか。あの人はほんとうに、わたしが思っている程度の人か。そう思うわたしは何者か。
神々とはなにか。わたしは、なにに従って行動しているのか。
きらうわたしを、神にみてもらう
聖書 テモテへの手紙 一 2章1-2節(新共同訳)
そこで、まず第一に勧めます。願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のためにささげなさい。王たちやすべての高官のためにもささげなさい。わたしたちが常に信心と品位を保ち、平穏で落ち着いた生活を送るためです。
いのる。神とじぶんとの関係をいのる。神とあのひととの関係をいのる。
わたしのきらいな、あのひとのことも神に。すると「きらい」ってなに?
神を前に、わたしの「きらい」をみる。じっくり、みる。
わたしの「きらい」は、神を前にちいさい。