スマホ説教 スマホで福音

日本キリスト教団王子北教会 http://romantischeironie.wix.com/godisnowhere から福音を発信します。スマートフォンなどの画面でも読めるような、なるべく短い、キリスト教のメッセージを語れたらいいなと思います。

清潔な衣

聖書 ヨハネの黙示録7章14節(新共同訳)

そこで、わたしが、「わたしの主よ、それはあなたの方がご存じです」と答えると、長老はまた、わたしに言った。「彼らは大きな苦難を通って来た者で、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである。」

キリストはわたしの、汗とよごれの下に隠されたひそかな痛みをいっしょに痛むべく、その血を流した。

彼の血はもういちどわたしを真っ白にし、わたしの隠された、わたしが隠そうとしていた痛みを明らかにし、わたしに赤子のごとく泣く自由を与える。

 

首尾一貫が崩れるとき

聖書 マタイによる福音書21章28-29節(新共同訳)

ところで、あなたたちはどう思うか。ある人に息子が二人いたが、彼は兄のところへ行き、『子よ、今日、ぶどう園へ行って働きなさい』と言った。兄は『いやです』と答えたが、後で考え直して出かけた。

なぜ兄は考え直したのか、語られていない。その「なぜ」には、兄自身も、そして誰も答えられない。

「考え直す」は「後悔する」と紙一重*1。「なぜ」に明快に答えられるようなことには、後悔の念は起こらない。

「あのとき『いやです』なんて言うんじゃなかった。なんであの時…」。ぐらついて、迷って、考え直す。そういう迷いや弱さからしか見えてこないものがある。

 

*1:μεταμέλομαιには「考え直す」、「後悔する」のどちらの意味もある。イエスを当局へと引き渡した、ユダの後悔。

「なぜ」が共振する

聖書 コヘレトの言葉3章1~8節(新共同訳)

何事にも時があり/天の下の出来事にはすべて定められた時がある。
生まれる時、死ぬ時/植える時、植えたものを抜く時
殺す時、癒す時/破壊する時、建てる時
泣く時、笑う時/嘆く時、踊る時
石を放つ時、石を集める時/抱擁の時、抱擁を遠ざける時
求める時、失う時/保つ時、放つ時
裂く時、縫う時/黙する時、語る時
愛する時、憎む時/戦いの時、平和の時。

なぜあのとき、泳げるようになったんだろう。

なぜあのとき、自転車は軽やかに滑りだしたのか。

なぜわたしの大切な、たいせつなあのひとは、あのとき死ななければならなかったの。

1日前でも1日あとでも、1分前でも1分あとでもなく。まさにこのときだったのは、なぜ。

微笑むなぜ。切り裂くなぜ。

あなたが「なぜ」と問うとき、神もあなたとおなじ「なぜ」を持っている。

分かるとはべつの仕方で

聖書 マタイによる福音書19章30節(新共同訳)

しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。

信仰は裏切る。わたしのちいさな予想を、いつも裏切る。

信仰は衝きやぶる。わたしのちいさな想いを、いつも衝きやぶる。

わたしの想像できるていどなら、信じる必要はあるか。

「信じたからって、どうなるんですか」と訊かれたならば、

「分からない。だから楽しみなんだ」と答えたい。

先だ後だと分けるのとはべつの世界が、そこには開けている。

分からないことを、分からないままに、ふかくかみしめる。それはいのちを、ぐんぐん掻き分けて行くこと。

放つこと

聖書 マタイによる福音書18章35節(新共同訳)

あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。

赦すというのは、忘れることではない。相手がなしたわたしへの痛みは、忘れられない。だが相手を捕縛せず、同害報復もせず、放つこと。

わたし同様、相手もまた神に放たれた存在であり、わたしの思うままにはならないのだから。

むりに笑うな。怒りを示せ。ただし怒るとき「いや、このひとを放とう。神がわたしを放たれたように」と。

赦しは、ただ相手を放つことだけを目指せばよい。

わたしが相手を放つとき。じぶんを蝕み焼くものから、わたしは放たれる。

あなたに、こだわっている

聖書 マタイによる福音書18章14節(新共同訳)

これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。

あなたはどう思う?

超巨大な天の父が、ゼロに近いあなたにこだわる。おかしくない?

それはなんの戯画なのか。こだわりぬいたすえに、無限なる者が十字架で殺されるとは。はだかで死にさらされる小さな者が、墓から起こされるとは。

あなたは誰とくらべて大きい?誰とくらべて小さい?

大きい小さいを、誰が決める。

無限に大きなあなたも神には小さな点。だが、これほどに小さなあなたも神には無限大。

 

わけられるのは神だけ

聖書 マタイによる福音書13章47-48節(新共同訳)

また、天の国は次のようにたとえられる。網が湖に投げ降ろされ、いろいろな魚を集める。網がいっぱいになると、人々は岸に引き上げ、座って、良いものは器に入れ、悪いものは投げ捨てる。

おたがいだれが大物で、だれが雑魚かなんてわかりやしない。いつかここではない場所へ───そう予感しながら、今をせいいっぱい泳ぐだけ。

魚には魚のいいぶんもあろう。だが魚には漁師の目利きなんてわかりやしない。わからないことはわからなくていい。いつわりの答えに喰いつくつもりはない。

「わからない」ことをわかっていることが、網のなかを楽しくするのだ。