信頼が降りてくる
聖書 創世記15章9~11節(新共同訳)
主は言われた。「三歳の雌牛と、三歳の雌山羊と、三歳の雄羊と、山鳩と、鳩の雛とをわたしのもとに持って来なさい。」アブラムはそれらのものをみな持って来て、真っ二つに切り裂き、それぞれを互いに向かい合わせて置いた。ただ、鳥は切り裂かなかった。禿鷹がこれらの死体をねらって降りて来ると、アブラムは追い払った。
恋人、友だち、家族・・・・誰かを信頼したあとで、その理由は列挙できる。だが、信頼が始まるまえに「この人を信頼できるか?」、その説明はできない。
わたしが信頼するのではない。信頼が、わたしへと降りて来る。
いつ終わるのか分からないことを、延々とやる。アブラムの儀式は、生きることそのもの。だが「これになんの意味が?」という問いからは、彼は自由である。彼は主を信頼しているから。
しぶみ
聖書 創世記2章7節(新共同訳)
主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。
わたしが毎日使っている、このうつわ。この染み、この傷。ああこの欠けたところは、あのときの・・・
うつわは時を刻む。量産であろうが銘品であろうが、このうつわに刻みこまれた時は、このひとつだけ。大切にしたい。割れたら寂しい。
わたしの傷や欠けは、わたしが使われてきた歴史。傷がついても、欠けても、大切にされてきた歴史。
首尾一貫が崩れるとき
「なぜ」が共振する
聖書 コヘレトの言葉3章1~8節(新共同訳)
何事にも時があり/天の下の出来事にはすべて定められた時がある。
生まれる時、死ぬ時/植える時、植えたものを抜く時
殺す時、癒す時/破壊する時、建てる時
泣く時、笑う時/嘆く時、踊る時
石を放つ時、石を集める時/抱擁の時、抱擁を遠ざける時
求める時、失う時/保つ時、放つ時
裂く時、縫う時/黙する時、語る時
愛する時、憎む時/戦いの時、平和の時。
なぜあのとき、泳げるようになったんだろう。
なぜあのとき、自転車は軽やかに滑りだしたのか。
なぜわたしの大切な、たいせつなあのひとは、あのとき死ななければならなかったの。
1日前でも1日あとでも、1分前でも1分あとでもなく。まさにこのときだったのは、なぜ。
微笑むなぜ。切り裂くなぜ。
あなたが「なぜ」と問うとき、神もあなたとおなじ「なぜ」を持っている。
分かるとはべつの仕方で
聖書 マタイによる福音書19章30節(新共同訳)
しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。
信仰は裏切る。わたしのちいさな予想を、いつも裏切る。
信仰は衝きやぶる。わたしのちいさな想いを、いつも衝きやぶる。
わたしの想像できるていどなら、信じる必要はあるか。
「信じたからって、どうなるんですか」と訊かれたならば、
「分からない。だから楽しみなんだ」と答えたい。
先だ後だと分けるのとはべつの世界が、そこには開けている。
分からないことを、分からないままに、ふかくかみしめる。それはいのちを、ぐんぐん掻き分けて行くこと。