力尽きたとき
聖書 エレミヤ書36章2-3節(新共同訳)
「巻物を取り、わたしがヨシヤの時代から今日に至るまで、イスラエルとユダ、および諸国について、あなたに語ってきた言葉を残らず書き記しなさい。ユダの家は、わたしがくだそうと考えているすべての災いを聞いて、それぞれ悪の道から立ち帰るかもしれない。そうすれば、わたしは彼らの罪と咎を赦す。」
後悔のツイートが積み重ねられる。
もうこんな後悔をしたくない。他の者にはこんな後悔をさせまい。きれいごとなど言いたくない。災いなるかな、このわたし────
後悔する人間は力尽きつつ、しかも秘かに、本人さえ知らぬ間に、神の前に力を溜めゆく。今やバッテリーの切れた人間は後悔において、神に接地し充電をしている。
わたしは知らない
聖書 マルコによる福音書13章32-33節(新共同訳)
「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである。気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである。」
わたしの知らないことがある。この、「わたしは知らない」という事実に、いつも目を覚まされる。「わたしは知らない」という消息から、何者かの気配がする。
だからわたしは知ろうとする。知ることはできないと分かっているからこそ、わたしは惹かれ、知ろうとする。わたしの知らないことを唯一人、何者かだけが知っている。その何者かをこそ知りたいと、わたしは惹かれゆく。
どうしてもわたしに分からないことは、その者にとっておいてもらおう、最期の日まで。
信頼が降りてくる
聖書 創世記15章9~11節(新共同訳)
主は言われた。「三歳の雌牛と、三歳の雌山羊と、三歳の雄羊と、山鳩と、鳩の雛とをわたしのもとに持って来なさい。」アブラムはそれらのものをみな持って来て、真っ二つに切り裂き、それぞれを互いに向かい合わせて置いた。ただ、鳥は切り裂かなかった。禿鷹がこれらの死体をねらって降りて来ると、アブラムは追い払った。
恋人、友だち、家族・・・・誰かを信頼したあとで、その理由は列挙できる。だが、信頼が始まるまえに「この人を信頼できるか?」、その説明はできない。
わたしが信頼するのではない。信頼が、わたしへと降りて来る。
いつ終わるのか分からないことを、延々とやる。アブラムの儀式は、生きることそのもの。だが「これになんの意味が?」という問いからは、彼は自由である。彼は主を信頼しているから。
しぶみ
聖書 創世記2章7節(新共同訳)
主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。
わたしが毎日使っている、このうつわ。この染み、この傷。ああこの欠けたところは、あのときの・・・
うつわは時を刻む。量産であろうが銘品であろうが、このうつわに刻みこまれた時は、このひとつだけ。大切にしたい。割れたら寂しい。
わたしの傷や欠けは、わたしが使われてきた歴史。傷がついても、欠けても、大切にされてきた歴史。