スマホ説教 スマホで福音

日本キリスト教団王子北教会 http://romantischeironie.wix.com/godisnowhere から福音を発信します。スマートフォンなどの画面でも読めるような、なるべく短い、キリスト教のメッセージを語れたらいいなと思います。

まだ終わってはいない

聖書 ルカによる福音書24章50~53節(新共同訳)

エスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。

エスは彼らを祝福し「ながら」天に上げられた。祝福し「終えて」ではなく。

彼らが大喜びのときも、失望に打ちのめされたときも。彼らの命が尽きたときも、その後も───イエスの祝福は、ずっと。

その祝福は今も、あなたへ。あなたが大喜びのときも、失望のどん底にあるときも。あなたが息を引き取るときも、その後も。

手が見える

聖書 マタイによる福音書6章3-4節(新共同訳)

施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。あなたの施しを人目につかせないためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。

あなたは気がつかなくても、あなたの手が神さまと手をつないでいる。あなたの手がいつの間にか、あなたの知らぬまに神さまと手をつないでいる。これこそ最高の報い。

神さまはあなたが闇へと倒れ込まないように、しっかりあなたと手をつなぎ、離さない。

またやらかしたけどな、それでもな

聖書 ヨハネの手紙 一 2章1節(新共同訳)

わたしの子たちよ、これらのことを書くのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。たとえ罪を犯しても、御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます。

失敗したら、再挑戦は怖い。

今日もやらかしたんですよ、最悪の失態を。正直、明日からどうしようか。もうやめようかな。

でもまあとりあえず、あと一回はやってみよう。弁護してくれる人もいることだし。あと一回はやってみよう。その人が尻ぬぐいしてくれることに賭けて。

 

導かれるものへ導く

聖書 コリントの信徒への手紙 一 12章3節(新共同訳)

12:3 ここであなたがたに言っておきたい。神の霊によって語る人は、だれも「イエスは神から見捨てられよ」とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです。

みずからの意志で神を信じる。神の霊に導かれ信じるようになる。

この命は自分で作り出していない。だが自分の命を今、自分で生きている。

私自身に源泉を持ちながら、その源泉は私を超えている。それを不思議だと驚くことが、信じることのはじまり。

沈んだり浮いたり

コロサイの信徒への手紙3章1~3節

さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。

どうせ死ぬ気でやるんなら、「死ぬ」で終わりにしたくない。イエスといっしょに再浮上。

どんなに深く沈んでも、こだわる重荷を手放して、イエスといっしょに再浮上。

こだわる重荷は手放せる。死を知るイエスと再浮上。

言葉の眼

使徒言行録13章31節(新共同訳)

このイエスは、御自分と一緒にガリラヤからエルサレムに上った人々に、幾日にもわたって姿を現されました。その人たちは、今、民に対してイエスの証人となっています。

パウロ自身は「上った人々」の一員ではなかった。でも、自分もイエスの姿を見たかのように言う。

信じる者は、見ていないのに、見たかのように言う。見たのか、見なかったのかは、じつは関係ないからだ。

パウロが人々と巻物の言葉をとおしてイエスを「見た」ように。わたしたちも、信じる者と聖書の言葉をとおしてイエスと出会う。

イエスはいつもそこにいて、言葉の眼でわたしを、あなたを見ている。

おはよう

マタイによる福音書28章9ー10節(新共同訳)

すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。イエスは言われた。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」

私からその人に向かって行かねばならないのではない。その人は行先ではない。

むしろ私の行先はないまま。されど立ち止まることも許されず。

そのさまよい歩く先に、「おはよう」と声をかけてくる人がひとり。

遺棄される悲しみ、起こされる喜び、その両方を知る人がひとり。

ほら、あなたの前に。