スマホ説教 スマホで福音

日本キリスト教団王子北教会 http://romantischeironie.wix.com/godisnowhere から福音を発信します。スマートフォンなどの画面でも読めるような、なるべく短い、キリスト教のメッセージを語れたらいいなと思います。

「なぜ」の外

聖書 マタイによる福音書4章19-20節(新共同訳)

イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った。

「人間をとる漁師」というキャッチコピーに惹かれたのか。私たちがもはや知る由もないその顔や声、たたずまいに撃たれたのか。どちらも正しい。どちらも後づけ。

イエスに出遭ってしまった、すべてを捨てるほどに。なぜ、ほかの誰かではなくイエスなのか。

人は誰かを自分で選びとるのか。気がつけばその人がそばにいたのか。

すべてのなぜとその答えとの「外」にある出会い。その「外」は、あなたの日常のなかに。

受ける側の想い

聖書 マタイによる福音書3章13節(新共同訳)

3:13 そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川ヨハネのところへ来られた。彼から洗礼を受けるためである。

ヨハネがイエスに洗礼を授ける。逆ではありません。

イエスはヨハネから受け取る存在として、そのお姿を顕されます。一方的に与えるだけの、強大で完璧な、寸分の隙もない神ではない。まず、受けるイエス。

イエスはあなたに、恵みの押し売りはなさいません。イエスはあなたのちいさな行いを、ひざまずき喜んで受け取られるでしょう。

慰めてもらおうともしない

聖書 マタイによる福音書2章17-18節(新共同訳)

2:17 こうして、預言者エレミヤを通して言われていたことが実現した。

18 「ラマで声が聞こえた。激しく嘆き悲しむ声だ。ラケルは子供たちのことで泣き、/慰めてもらおうともしない、/子供たちがもういないから。」

 

子を喪った母は慰めを拒む。彼女は言う。黙ってそばにいてくれ。ただ泣き叫ばせてくれ。独り喉から血を吐くまで。

生き延びる幼子イエスは、生き延びられぬ子らの命を負う。その重みにあえぎ、沈黙する。彼は慰めを語らない。

イエスは彼女の絶叫に、黙ってはらわたをえぐられる。

すくわれるすくいぬし

聖書 ヨハネによる福音書1章14節(新共同訳)

1:14 言(ことば)は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。

 

あなたが光の外へほうりだされ、うつむくとき。イエスはあなたを手招きするか、光の中から?

イエスも暗闇にいる。あなたの居場所、希望の外に。疲れ果てたあなたと、イエスも座りこんでしまう。

イエスも肉をもって生まれたから。肉は痛むし血を流すから。

それがクリスマスだから。

くちびるに宿る

聖書 マタイによる福音書1章23節(新共同訳)

「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。

苦しく辛い時も。感謝にあふれる時も。「インマヌエル・アーメン、インマヌエル・アーメン・・・」わたしは唱えます。

いつでも、どんなときでも。イエス・キリストはわたしを見捨てない。インマヌエルをささやけば、くちびるで感じる。頭でもない。心でもない。くちびるです。

インマヌエル。あなたのちいさなくちびるに、神が宿られます。

「あなたと飲み食いしたい人がいる」と、悪霊憑きは言う

聖書 マタイによる福音書11章18-19節(新共同訳)

11:18 ヨハネが来て、食べも飲みもしないでいると、『あれは悪霊に取りつかれている』と言い、19 人の子が来て、飲み食いすると、『見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ』と言う。しかし、知恵の正しさは、その働きによって証明される。

当時の人々は、「人の子」という言葉に天的な存在者、神と特別な関係にある何者かを期待しました。

しかし悪霊憑きだと陰口されるヨハネが、イエスの到来を預言しました。そしてイエスは神聖な姿ではなく、罪人の仲間として自分をさらしました。

あなたの神は、あなたから遠い神ではありません。イエスはあなたと一緒に飲み食いしたがっている。あなたと同じ孤独を、人の子も生きているから。

「間違えよう」と決意する人はいない。

聖書 イザヤ書59章12節(新共同訳)

59:12 御前に、わたしたちの背きの罪は重く/わたしたち自身の罪が不利な証言をする。背きの罪はわたしたちと共にあり/わたしたちは自分の咎を知っている。

それが間違いであることを知っている。それが悪いことだと分かっている。でも、げんにそれをしてしまう。なぜなのか。どこで間違えたのか。

「よし、間違えよう」。そんな言葉はありません。いつの間にか道を誤る。なぜか軌道修正できない。ますます負の連鎖に落ち込む。この苦しい現実を、聖書では罪と呼びます。

イエス・キリストは、わたしやあなたが間違い、迷ったら、一緒に道を探してくれる。自力ではどうにもならない迷いから、自由へと解放してくれるのです。