この諦めの世界に
6:26 イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。27 朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。父である神が、人の子を認証されたからである。」
日々報道される、生きるのに必死な方々のことを、どうか祈りつつ思い浮かべてください。あなたが苦しいのなら、あなた自身のことを。
イエスはそういう相手に、そんなあなたに。「パンを食べて満腹したからだ」と言い放った。そのことの重さを、その痛みを、どうか。
なぜイエスは?なぜ、イエスは・・・・・・・
永遠なんてあるもんか。これが世界じゃないか。これが現実じゃないか ──── 諦めの世界のなかに「永遠の命に至る食べ物」を持ち込んだ、このイエスという男のことを、どうか忘れないでください。
恐ろしく見えることもある
6:18 強い風が吹いて、湖は荒れ始めた。19 二十五ないし三十スタディオンばかり漕ぎ出したころ、イエスが湖の上を歩いて舟に近づいて来られるのを見て、彼らは恐れた。20 イエスは言われた。「わたしだ。恐れることはない。」21 そこで、彼らはイエスを舟に迎え入れようとした。すると間もなく、舟は目指す地に着いた。
暴風にうねる黒々とした湖面。その水の上を、なぜかこちらへと歩いてくる人が・・・・「わあこっちへ来るな!」「逃げろ!舟の向きを変えろ!」そうやって怖がれば怖がるほど、わたしは目指す地から遠ざかってしまう。
「わたしだ。恐れることはない。」。イエスの呼びかけで、わたしは気付く。迫り来るこの化け物こそがイエスなんだと。イエスを化け物と見せたのは、わたし自身の認知の歪みなんだと。
怖がらなくていい。だって、わたしが怖がっている不安や恐怖のど真ん中に、イエス・キリストがおられるから。それに気づけば、わたしは目指す地にもう着いているから。
それは驚きもしないことから
聖書 使徒言行録24章14-15節
24:14 しかしここで、はっきり申し上げます。私は、彼らが『分派』と呼んでいるこの道に従って、先祖の神を礼拝し、また、律法に則したことと預言者の書に書いてあることを、ことごとく信じています。15 更に、正しい者も正しくない者もやがて復活するという希望を、神に対して抱いています。この希望は、この人たち自身も同じように抱いております。
パウロは「分派」活動によって人々を惑わしているという罪状で、裁判に引き出されています。ですが、彼は自己正当化のため自らの「スゴさ」を誇示するような、奇跡の話はしません。
仲間に救援金を届けに来たこと。神殿へと(ふつうのユダヤ人のように)礼拝しにきたこと。パウロはそれを語るだけです。彼にとって、それがイエス・キリストの復活を喜ぶことだからです。
イエス・キリストの復活の希望に衝き動かされた者は、スゴいかスゴくないかという価値判断から自由です。人目も引かない地味なことを、喜びのうちに行うことができるからです。
慟哭し、偲び、希望する
聖書 使徒言行録9章39-40節
9:39 ペトロはそこをたって、その二人と一緒に出かけた。人々はペトロが到着すると、階上の部屋に案内した。やもめたちは皆そばに寄って来て、泣きながら、ドルカスが一緒にいたときに作ってくれた数々の下着や上着を見せた。40 ペトロが皆を外に出し、ひざまずいて祈り、遺体に向かって、「タビタ、起きなさい」と言うと、彼女は目を開き、ペトロを見て起き上がった。
ここにはキリスト教の葬儀の意味が凝縮されています。やもめたちは、ドルカスの遺した品々を手に取り、彼女を偲んで泣く。死別を深く悲しむ。
しかしドルカスは起き上がる。(注:タビタとはドルカスのことです。)神は死で人を終わらせない。神は死から人を起こす。死の穴から人を立ち上がらせるんです。死から立ち上がったイエス・キリストの希望とともに。わたしたちは葬儀で号泣しつつも、「また逢う日まで」と歌うことができる。
わたしたちキリスト教徒は、どんなときでも、その希望にわしづかみされているのです。
神が悔い改める!
聖書 ヨナ書3章10節-4章1節(新共同訳)
3:10 神は彼らの業、彼らが悪の道を離れたことを御覧になり、思い直され、宣告した災いをくだすのをやめられた。4:1 ヨナにとって、このことは大いに不満であり、彼は怒った。
神さまが宣告を撤回されるということは、町は滅びない。町が滅びないということは、「この町は四十日で滅びるぞ!」と預言したヨナは嘘つき呼ばわりされかねない。神から託された言葉を語ったというのに!?
でも、ヨナが必死で語ったおかげで、町の人々はみんな悔い改めて、神さまさえ滅ぼすことを思い直され(思い直す〔ナハム〕は「悔い改める」くらい重い!)て。ヨナってすごいじゃないですか。いい加減なもの言いなんかじゃ、誰も耳を貸しませんよ。
「こんな結果のために、わたしは必死になったのか!」と怒る。あなたのその怒りは貴い。あなたが怒りを覚えるほど必死に生きる姿に、神は心動かされ、思い直されるでしょう、何度でも!そして思い直される神の姿に、あなたは深い慰めを得るでしょう。
傷を受け止める人
4:16 イエスが、「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」と言われると、17 女は答えて、「わたしには夫はいません」と言った。イエスは言われた。「『夫はいません』とは、まさにそのとおりだ。18 あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ。」
人目を避けるように水汲みに来て、イエスと出会ったこの女性。でも彼女はもう、誰かの視線を恐れる必要はない。イエス・キリストが彼女のすべてを受け止めたから。
イエス・キリストは、あなたの今、ここにある状態を、まずはしっかり受け止める。そこに、いいも、わるいも、ない。イエスの、この静かな受け止め。そこからの、イエスとあなたとの関係の始まり。
あなたの今が、あなたにとって「いい」のか「わるい」のか。即決する必要はありません。すべて、まずはイエス・キリストが受け止めてくれていますから。
人が排除しても、神は必要とする
3:29「花嫁を迎えるのは花婿だ。花婿の介添え人はそばに立って耳を傾け、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ。だから、わたしは喜びで満たされている。30 あの方は栄え、わたしは衰えねばならない。」
この聖書個所は、イエス・キリストの到来を告げた、洗礼者ヨハネの言葉です。結局「キリスト教」は後世に残りましたが、「洗礼者ヨハネ教」は残らなかったんです。
イエス・キリストだ!この人のことを伝えたい!その思いだけに衝き動かされたヨハネ。彼はこころざし半ば、歴史の露と消えてゆく・・・・けれども、そんな彼の「挫折」こそが、キリストの到来を世に知らしめたのです。
あなたのすること、したことが人から見て「挫折」であっても、あなた自身がそのことに落胆していても。神はそんなあなたの営みを、どうしても、なにがなんでも、必要としておられるのです。