スマホ説教 スマホで福音

日本キリスト教団王子北教会 http://romantischeironie.wix.com/godisnowhere から福音を発信します。スマートフォンなどの画面でも読めるような、なるべく短い、キリスト教のメッセージを語れたらいいなと思います。

休憩地しかも目的地

ペトロの手紙 一 2章11節および25節(新共同訳)

2:11 愛する人たち、あなたがたに勧めます。いわば旅人であり、仮住まいの身なのですから、魂に戦いを挑む肉の欲を避けなさい。

2:25 あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来たのです。

不安定な仮住まいを繋ぎつつ、人生の苦しい道を歩む旅人。その人はイエス・キリストに旅の目的地を見据え、どんなに翻弄されてもその目標を見失いません。イエスさまがこう仰るからです。

“疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。”(マタイによる福音書11章28節)

十字架で両腕広げるイエス・キリストが、ゴールへと倒れ込む走者、あなたを抱きとめようと待ちかまえておられる。否、もうあなたを抱きとめてくださっている。

 

バッシングにさらされても対話をやめず

エレミヤ書28章8-9節(新共同訳)

28:8 あなたやわたしに先立つ昔の預言者たちは、多くの国、強大な王国に対して、戦争や災害や疫病を預言した。9 平和を預言する者は、その言葉が成就するとき初めて、まことに主が遣わされた預言者であることが分かる。

預言者ハナンヤが語る、結局は成就しない「平和」に対して、預言者エレミヤは上記のように反論しました。

エレミヤはハナンヤのことを「お前は偽預言者だ!」と罵ったりはしない。“あなたやわたし”、つまり自分も相手も対等な預言者なのだという前提を崩さない。エレミヤは争点を、預言の中身に絞っています。

エレミヤだって一人の弱い人間です。バッシングの嵐のなかで「なぜ、わたしは母の胎から出て労苦と嘆きに遭い/生涯を恥の中に終わらねばならないのか。」(20章18節)と、泣き言をこぼすこともある。けれどもそんな弱い人間が、論敵を敬いながら言葉を交わすことだってできるのです。

主よ、静かな心で相手に話す恵みを、感謝いたします。アーメン。

 

疲れ切ったあなたへ

聖書 エフェソの信徒への手紙5章14節(新共同訳)

明らかにされるものはみな、光となるのです。それで、こう言われています。「眠りについている者、起きよ。死者の中から立ち上がれ。そうすれば、キリストはあなたを照らされる。」

イエス・キリストが「復活する」のは、「起きる」「立ち上がる」と同じ言葉。だから復活は死んだ後の話だけじゃない。今を生きるあなたが起きること、立ち上がること。

あなたが生きることに疲れたなら、休んでいい。布団にくるまって、とことん眠っていい。だいじょうぶ、寝過ごしたりはしないから。あなたの疲れが癒えたら、イエスさまが起こしてくださるから。

ぜったいだじょうぶ、寝坊なんかしない。あなたが眠りに眠り、休みに休んだ頃合いに、イエスさまは、あなたの手をとって立ち上がらせてくださるから。

もしもあなたが今、疲れているなら。どうかゆっくり休んでください。あなたの疲れをイエス・キリストがお癒しくださる、その日まで。

矢を放つまでが

聖書 ヨハネによる福音書8章7節(新共同訳)より

「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」

 さまざまなスキャンダルが連日報道されます。「それみたことか!」「ざまあみろ、自業自得だ!」。その前提は「スキャンダルを起こしたことの責任は、その人自身にある」。

罪(ハマルティア)とは、もとは「的を外すこと」という意味です。ふざけているのならともかく、弓をひいて矢を射るなら、ふつうは真剣勝負。射手は本気です。それでも矢が的外れな方向に、虚しく飛んで行ってしまうこともある。

この人がこうなっているのは、なにもかもこの人のせいなのか。わたしが今こうなっているのは、わたし独りがダメ人間だからなのか。イエスさまは問いかけておられるのです。

 

要約できない「それ」

聖書 ヨブ記28章21~23節(新共同訳)

28:21 すべて命あるものの目にそれは隠されている。空の鳥にすら、それは姿を隠している。22 滅びの国や死は言う/「それについて耳にしたことはある。」23 その道を知っているのは神。神こそ、その場所を知っておられる。

元気にやっているとき、順調なときには、気にもならないこと。でも、生き辛さを痛感しているときには、衝き上げてくるもの。

なぜ?わたしがなにをしたと?どうして、こんなめに遭わないといけない?どうしてわたしでなければならない?─────「それ」が知りたい。滅びの国や死に瀕した時にこそ、耳に響いてくる「それ」の答えを。

「それ」を渇き求めるあなたの痛み。他の誰にも代わってもらえない、あなただけの痛み。言葉にならない、あなただけの「それ」を、イエス・キリストはすべて受け止めて下さいます。ご自身の、身を裂かれる十字架の痛みによって。神が「知る」とは、神があなたの痛みに、ご自身を傷ませつつ、深く関わって下さることなのです。

まだか。───── まだだ。

ヨハネによる福音書7章2節~6節前半(新共同訳)

7:2 ときに、ユダヤ人の仮庵祭が近づいていた。3 イエスの兄弟たちが言った。「ここを去ってユダヤに行き、あなたのしている業を弟子たちにも見せてやりなさい。4 公に知られようとしながら、ひそかに行動するような人はいない。こういうことをしているからには、自分を世にはっきり示しなさい。」5 兄弟たちも、イエスを信じていなかったのである。6 そこで、イエスは言われた。「わたしの時はまだ来ていない。」

急かす兄弟たち。待つイエス。

「今はほんとうにその時か」。あなたを愛する人でさえ、あなたの「時」を、あなたの代わりに決めることはできない。

愛する者にさえ分からない、あなただけの「時」の到来。あなたはそれを、背を丸め体を縮めながら、じっと待つ。

あなたが待つその「時」の到来を、今この瞬間、イエス・キリストも待っている。

イエス・キリストも、じっと待っている。

飲んで喰う信仰

コリントの信徒への手紙 一 11章26節(新共同訳)

11:26 だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。

キリスト教の教会では、教派によって作法はさまざまですが、パンを食べ葡萄酒を飲む儀式があります。心だけではなく自分の体でパンと葡萄酒を味わいながら、ダビンチの絵で有名な「最後の晩餐」を想起するのです。

イエスの死を告げ知らせるということは、イエスの死に至るまでの全人生を語るということです。「死ぬ」というのは、その人の死ぬまでの人生という文脈あってのことですから。

信仰は、アタマやココロの内的世界(空想)ではないんです。あなたの口、歯。あなたの胃腸。あなたの身体が生きて動いているというこの事実、そしてあなたの身体をとりまくこの現実にとことん付き合うのが、イエス・キリストなのですから。